なぜ医者になったのか、なぜ救急なのか、なぜ下田なのか
なぜ医者になったのか
医学部への進学を考え始めたのは高校2、3年生だったと思います。父は会社員であり子供時分から医者になろうとは特に考えていませんでした。昭和40年代は楽しい時代で友達と遊んだり、本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、なんだかんだと遊んでいるうちに時が過ぎていった感じです。一人で絵を描いたり、クラブ(同好会)を作って自分たちの興味を深めたり、気ままに過ごしていました。高校2年の頃は映画やポップアートが好きで、アート・デザイン・映画の領域が仕事にならないかと漠然と考えていました。高校2年の終わりころになると、僕の才能ではアートやデザインでは生活できないだろうと考えるようになり、医者になろうかなと考え始めました。考え始めると、困っている人たちに医療を提供できる仕事はどこへいっても必要とされるだろう、というこれまた漠然としたポジティブな直感で医学部進学を決めました。
なぜ救急なのか
大学5年の夏に、「日本で初めての救急医療の講座ができた」(大阪大学医学部附属病院特殊救急部)というような記事を新聞で読んだのがきっかけで救急医療を選択しました。その当時は大阪大学と日本医科大学の2大学だけが救急医療を手探りで行なっていました。昭和30年代の交通戦争を背景に救急医療の必要性が社会問題化したこと、行政が大学での診療体制の支援を行なったことなどが専門領域としての救急医療が誕生するきっかけとなりました。大学時代に既存の診療科で実習を行いましたが特に興味を引く診療科はなかったため、まったく新しい救急医療を選択しました。これまでになかったこと、そして面白そうだなと思った直感を頼りに救急を選択しました。
なぜ下田なのか
1981年からずっと救急領域で仕事をしてきました。3年間の外科研修で当時の外科認定を取得。その当時は研修医の頃から他の医療機関でパートタイムジョブができたので、なんでも診る医療を経験しました。外科・内科クリニックで院長役を務めたり、楽しい時代でした。僕の感覚では交通戦争を背景とした外科的救急医療は2000年頃にはピークをむかえ、次第に内科救急・日常救急的なニーズが高まってきたと思います。2010年頃には救急科専門医制度(日本救急医学会)が確立し、救急診療も既存の診療科の一つとして制度的には定着しました。ここまでが「なぜ下田なのか」の前段になります。
2010年以降の僕的トレンドは、(僕にとっての)救急医療のフロンティアは終わり次世代救急医療の時代になった、(僕にとっての、自分がワクワクする)次のフロンティアは在宅医療・地域包括ケアシステムの領域だろうということでした。次のキャリアの選択では、医学部進学の時代の背景として医者には無医地区への貢献が期待されそこに税金が投入された(1県1医大構想)という原点に戻ろうとも考えていました。
前段で書いたことと次のキャリア選択が化学反応を起こした結果が三条しただ郷クリニックの開業になるわけですが、そのきっかけは一通の手紙でした(2018年7月)。その手紙は医師招聘コンサルタント会社からで、内容は東京から新幹線で2時間、そこから15kmの地域が医師を招聘している、興味があれば話をしますが、というような内容でした。その頃には2017年に転職した病院での仕事(急性期病院をベースとする在宅医療・訪問診療体制の構築とチーム育成)がほぼ完了していたので話を聴くことにしました。
8月には三条市下田保健センターでガイダンスを受け地域を車で見学しました。その印象は、自然が美しい・地域(村)の雰囲気が懐かしいということでした。自然が美しい・村が懐かしい、にはいろんな意味と解釈があり下田地域での次のキャリア発達を選択した理由になっています。
僕が医者になったわけ、救急を選択したわけ、そして下田地域でのキャリアを選択した経緯についてお話ししました。
池上先生、新たな時代のスタートとほぼ同時に医師不足の新潟での開業おめでとうございます。私は故郷が新潟県上越市です。親戚は新発田にいます。三条は、通り過ぎるくらいですか田園広がるのどかな地域ですよね。冬は豪雪に見舞われて朝早くから雪かきになると思いますが体力がついて一石二鳥かもしれません。
8月にファーストエイドのコースで上越市に行くので三条にお顔出しても良いですか(^^) 無医村地域での医療提供実践を見せていただきたいです。
是非どうぞ! 大歓迎です。 予定を教えてください。
先生、早速の返信ありがとうございます(^^)
8月10日がファーストエイドのコースなので11日に伺いたいなと思いますがいかがでしゅうか(^^) もし宿泊できましたら11-12日に伺いたいです(#^.^#)
11日の昼過ぎには三条に戻っていると思います。